ジョルノ・ジャズ・卓也

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少し不思議がちょうどいい〜ふらいんぐうぃっちの世界〜

魔女というよりは魔法少女が幅を利かせている印象の現代日本フィクション業界。女の子が魔法を使って活躍する作品といえば、派手な変身シーン、勧善懲悪、中学生〜高校生くらいのお姉さんが悪と戦う。そんなイメージが定着したジャンルだが(ここまで「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」「ピンキーモモ」「美少女戦士セーラームーン」あたりのプロトイメージを書き連ねてる)、「魔法少女まどかマギカ」の登場以降、魔法少女サイドの正義や理念に対する根本の疑問、何故悪と戦うのか?悪とはそもそもどういう定義のもとに魔法少女と対峙するのか?といったガンダムやエヴァンゲリオン以降に思春期少年向けアニメで意識的に取り上げられるようになったレーゾンデートルのテーマを盛り込むようになり、一つ次元のレベルを上げた作品も作られるようになった。しかし、今回紹介する作品は古典とも革新とも違う「異端」と「普遍」を備えた作品…「ふらいんぐうぃっち」について語りたい。まずは簡単な作品紹介から。ふらいんぐうぃっちは別冊少年マガジンに連載中の少年漫画。既刊は現在までに六巻が発売されており、2016年にはアニメ化も果たしている。ストーリーは主人公の魔法使い(見習い)である木幡真琴が引っ越してくる場面から始まる。魔女のしきたりにより15歳になると実家から出ねばならない真琴は、青森県にある親戚の倉本家に居候することになる。田舎特有のゆったりとした中で倉本家との交流や同級生、同じ魔女や人ならざるものとも関わりを深めて少しずつ魔女として女性として成長していく…。はっきりいってこの漫画にド派手な魔法や重いストーリー展開は皆無だ。主人公の真琴を含め、魔法使い(見習い、熟練問わず)は何人か登場するが、それを知らない人はそれなりに驚きを持って反応をするのだが、大抵の人は「ま、そういう人もいるよね〜」な感じでナチュラルに認めている。魔女狩りで迫害されたりする展開はこれからもないだろう。で、肝心の魔法も結構地味。一応ホウキに跨り空を飛ぶシーンもあったりするのだが、どう考えてもドローンのほうがスピードありそうなレベルだし、主人公が魔女見習いという立場のせいか、すごい占いの延長のような魔法の方が多い(ちなみに真琴の姉である茜も魔女でこちらは瞬間移動のような高等魔法も使える手練れ)。高校に通い、普通の女の子として青春を送りながらも魔法使いとして頑張る日常を切り取ったストーリー漫画がふらいんぐうぃっちの魅力だ。藤子・F・不二雄先生が提唱したSF(少し不思議)の世界を無意識に掬い取り、現代の感性と田舎特有の緩やかな時間の流れ・美しい自然が人ならざる力を畏怖や恐怖に押し込まずに作品中で登場させる手腕はお見事である。

知的なアウトローじゃなきゃ意味がない

ミュージシャン:The Doorsタイトル:Self Title(邦題:ハートに火をつけて)ロックなんてガキの音楽だ。オールディーズの映画でリーゼントの少年とワンピースの女の子が「Johnny・B・Goode」をバックに踊るチャチな青春イメージが拭えないし、The Beatlesの初期のファン層の殆どは女の子でキーキー猿みたいな歓声ばかりで、コンサートはうんざりするような様相だ。そんな固定概念を音楽評論家の大先生がシュトラウスを聴きながら皮肉のように愚痴るのを否定出来ないのが事実だった。彼らの登場までは…。「The Doors」バンド名はウィリアム・ブレイクの詩句「the doors of the perception(知覚の扉)」の一節から付けられた。名門UCLAの映画科の学生だったレイ・マンザレクと後にロック界の永遠のカリスマになるジム・モリソンが中心となり結成される。印象的で優れた曲を作るレイと幼い頃から内気な読書家で知的な素養が抜群のジムが出会って作り上げられたバンドは地元で圧倒的な人気を築き上げていく…。他のバンドとの差異は、歌詞の圧倒的なまでの文学的内容だ。サイケデリックなトリップによる幻覚を克明に記したナンバーから、近親相姦、エディプスコンプレックスを吐露した人(特に男子)が逃れられないカルマを歌った内容まで、ベイビー!イエー!愛してるぜー!に飽き飽きしていた、ニューエイジにがっつり需要が合致したのだ。そして、ビートルズが「サージェントペパーズ〜」を発売し、クリーム等ブルースロックの波が盛り上がっていた時期にドアーズはデビューした。時代はサイケじゃなきゃブルース、もしくはその両方と時代が新しい音楽の危険な快楽にやられていったその時に最もエッヂでデンジャラスだったのが彼らだった。アメリカ人らしくブルージーで土臭いリズムを見せながら、要所要所に顔を出す印象的なオルガン。サイケデリックでくらくらするようなキーボードパートは目眩がするほど素敵だし、それに被さるジムの囁きと咆哮は野卑さとは程遠い、神の御使いかと思うほどの絶対的な力を持つ。では、後述で曲目を詳しく語っていきたい。1.「Break On Through」印象的なオルガンイントロから始まり、ジムの力強い歌とシャウトがインパクト大の掴み曲。曲構成自体は単純なのだが、印象的なリフの反復が圧倒的な力をジムとプレイヤー陣の交互作用として与えており、結果として凄みが曲に生まれている。2.「Soul Kitchen」一点穏やかな曲調になったかと思うかと、今度はジムの歌の独壇場。シンガーとしてこれでもかと歌いまくる。一本調子にならないのも優れたフロントマンの証だろう。曲自体はブルージーさを持つ佳曲。3.「Crystal Ships(水晶の船)」ロマンチックなバラード曲。ここでのジムはロマンと刹那さに表現の意識を割いているように感じられる。歌詞も悲しくブルーな内容となっている。4.「Twentieth Century Fox(20世紀の狐)」ミドルテンポでリラックスし、少しファニーにも感じられるように歌われている。曲自体も2分半と短いが合間にもクオリティを落とさないのは流石。5.「Whiskey Bar(Alabama Song)」サーカスのピエロが素敵とも不気味とも捉えることが出来るような笑顔を浮かべ、子供たちの元に近寄り、バルーンを手渡している。純粋な彼らは道化の内面など知る必要もないし、疑いもしないだろう。そしたら、なんだが物憂げなメロディが流れはじめ、いっぺんに彼らはお家に帰る時になる。「また、明日…また、明日…」みんながママの元に向かう間もピエロはニコニコ笑う。鉄面皮笑顔の下にあるほんとの表情は笑っているのだろうか、それとも泣いているのだろうか…果たして…それとも…6.「Light My Fire(ハートに火をつけて)」このアルバムのハイライトであり、解散までバンド自体を呪いのように締め付けた代表曲。イントロからして聴いた後の快感を約束された名曲ではあるのだが、アルバム版の長尺インストパートの優しさとも暴力とも無縁な、不気味なこの世にあらざる幻想的な虚ろさは他には一切真似できない。恐ろしいが手を触れたくなる魔力。

ヘヴィメタル死すべし

アーティスト:Neurosisアルバム:「Times Of Grace」90年代はヘヴィメタル冬の時代と言われている。80年代にあれだけチャートを賑わせたアメリカのメタルバンドたちは売り上げの低迷に悩まされ、解散を選んだバンドも数多くいた。ヨーロッパのバンドはアメリカでの大きな成功よりも、小規模ながらも安定した人気が見込める日本でのマーケティングを重要視し、Big In Japanが笑い話ではなくなった少し寂しい時代だ。勿論、Panteraというアメリカンメタルの権化というべきモンスターバンドが大活躍したり、北欧でメロディック・デスメタルという新たな潮流が生まれ、アンダーグラウンドからメインストリームに殴り込みをかけたりと全く動きが無いわけではないのだが、どこかインパクトに欠けるという印象だ。ヘヴィな音楽がメタルだけの特権ではなくなり、Rage Against The Machine, Korn, Limp Bizkit, Linkin Parkなど、ヒップホップ、ハードコア、ハードコアテクノが由来のバンドが大活躍し、「メタル」が無いヘヴィが当たり前になった時代だった。そんな時代に様式美に拘泥し、愚直に進むわけでもなく、アンダーグラウンドの勢いのあるジャンルの勝ち馬に乗ることもなかったバンドがアメリカにいた。その名は「Neurosis」。ポストメタルというどのシーンとの馴れ合いも拒絶した、孤高のヘヴィメタルジャンルを作り上げた開祖である。Neurosisというバンドは元々、ハードコアパンクを志向していた。事実、1stアルバムをリリースした際はダークな一面を見せるハードコアバンドという印象が強かった。しかし、徐々にヘヴィなリフが曲に増え、BPMも軽く速くではなく、重く引きずるようなリズムが増えていく。メタリックではあるが、既存のヘヴィメタルに対しては鼻で笑うかのように実験要素がふんだんに使われており(ノイズやドローン、吹奏楽まで)、バチっと決まる気持ちの良いリフなどは皆無。凶暴で威嚇するかのようなリフでリスナーの首元に鋭利なナイフを突きつけくる。徐々にアンダーグラウンドの世界で存在感を増していったNeurosisは、今回紹介するアルバムの一つ前の作品の5thアルバム「Through Silver In Blood」で完全に地位を確立。Panteraとのツアーやオズフェストの出演で広くリスナーにもアピールし、そして傑作「Times Of Grace」に至るのである…。少し前置きが長くなったが、アルバムの中身について語っていこう。アルバム全体を通じて、重くメタリックな世界観が展開される。ずるずる引きずるかのような金属リフ…ヘヴィメタルの気持ちの良いリフではなく、インダストリアルやドゥームといった音楽を彷彿とさせるリフの使い方が多様されている。歌い方もハイトーンやグロウルといった、メタルでよく使用される歌唱法というよりはよりプリミティブな、強いていうならハードコアな歌い方の印象を受ける。この辺りはハードコア出身の特色だろう。このアルバムは混沌かつ邪悪であると共に静的なパートも用意されている。管楽器やピアノといったアンプラグドも使用され、ゆったりした味付けもしてある。しかしあくまでそれは隠し味だ。さらなる混迷の為の踏み台でしかない。その僅かな静謐ですら、リスナーの心拍音を下げるには能わない。そして何より、ポストメタルというだけあって、ヒーローをバンドに求めたメタルバンド幻想(速弾きのギタリストやイケメンヴォーカリストにツーバスを踏むスーパードラマー)を真っ向から否定し、ギターやベース、ドラムをただの音を出す楽器としてだけ扱っている。ギターに万能のヒロイズム幻想を一切抱かず、ただ思想の為に使用するだけなのだ。では、その思想とは何か。既存ヘヴィメタルの否定と新たな混乱である。それがこのアルバム、バンドの全てなのだ。アルバム全体が音楽思想の為にバランス良く作曲されアンバランスな部分は全くなく、外した曲は一切ないが、その曲群の中でも特に白眉の出来は「The Doorway」と表題曲である「Times Of Grace」だろう。「The Doorway」は今作のイメージを決定づける切込隊長のような役割を果たしている。これまで散々訴えてきたNeurosisのイメージ(重いリズム、金属リフ、ダークな世界観)そのものである。ヴォーカルの咆哮もゾクゾクするほど美しい。「Times Of Grace」は丁寧に紡がれたイントロから、一気に濁流のように流れ込むようなリフとリズム隊のイカれた一体感がとにかく興奮の一言。後半での、ドゥーミーで不穏な空気を残していくアウトロを含め、圧倒的な説得力である。「Times Of Grace」はもしかしたら、熱心なメタラーからは否定されるアルバムかもしれない…というか否定されてしかるべきだ。なぜなら、彼らは否定されることにより自分たちの音楽がメタルの長い歴史の中に楔を打ち込むことということを確信しているからだ。ブラックモアのようなキャッチーなリフもなければ、インギーのような速弾きギターもない。プラントのようなスーパーヴォーカリストもいないし、華のあるイケメンメンバーもいない。しかし、このアンダーグラウンドからの侵食者は華々しいヘヴィメタルの歴史をそのアイディアと執念により価値観の転換を成し遂げてしまったのだ。ヘヴィメタルの破壊者、そしてNew Values MakerとしてのNeurosis。ヘヴィメタル信奉者全てに聴いて、激怒して欲しい一枚。(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)追記:ポストメタル

心の刃は悪心を断つ〜鬼滅の刃大好きオタクより〜

え〜…今回のコラムも音楽にあんまり関係ございません…申し訳ないと思っています(思ってるとは言ってない)でも!極力音楽にも絡めていくので許して欲しいです!おなしゃす!今、僕がめちゃくちゃ大好きな漫画がある…それが現在、週刊少年ジャンプに大好評連載中の「鬼滅の刃」だ。どういう話か簡単にかいつまんで、説明していきたい。舞台は大正時代。炭焼きとして働く心優しい少年の「竈門炭次郎」は父を亡くし、貧しいながらも母親とたくさんの兄弟たちと一緒に山中で仲良く暮らしていた。ある日夜遅くまで炭を売っていた炭次郎は麓の村の老人に、夜もふけると人を喰い殺す「鬼」が現れ危険だから一晩泊まっていくよう諭される。最初は「鬼」の存在に懐疑的だった炭次郎だったが、生来の優しさから老人が話し相手を欲し、寂しがっているのだと解釈し、恩義に甘え、一晩宿を借りることにする。次の日、自宅に帰ると家族が無残に惨殺され、唯一の生き残りである妹の「竈門禰豆子」は鬼へと変貌していた…。禰豆子を人間に戻し、家族の仇を討つ為、炭次郎は鬼を討伐する非公式団体である鬼滅隊に入隊し、戦いの日々に身を投じていく…。とまぁ、和風ダークファンタジー活劇とでもいうべき、ありそうでない王道設定の物語なのだが、何が素晴らしいかというとまずはその世界観!

僕らはみんな夜を生きている

アーティスト:Steely Danタイトル:Aja(邦題:彩[エイジャ])現代ポップミュージックでは歌や演奏が下手でもルックスとそこそこの個性があればミュージシャンやアーティストの末席が許されるのは公然の事実だ。今や歌が上手いアイドルの方が少ないし、ロキノン系バンドの演奏だって中々に酷い。別にアマチュアリズムが悪いわけではない。アマチュアリズムが聴き手の気持ちを揺さぶらずに、ただ表層だけの魅力で許されている現状に僕は非常に落胆しているのだ。そんな何百回目か分からない呆れたため息の後は必ず僕はこのアルバムを聴く。Steely Danの「Aja」を。この「Aja」はとてもつなく完成度の高いアルバムだ。一流のミュージシャンが大勢集まり、一流の曲と一流のプレイが完全な編集によってパッケージされている。一流が集まれば、必ずしも良い作品が出来るわけではない。四番バッターばかり集めた時の巨人は強かっただろうか?東大卒のエリートばかり集めた官僚組織は不祥事が一切なく清廉潔白だっただろうか?クリエイターやプレイヤーを使いこなし完全に能力を発揮させる事はそれほどに難しい。そんなハードルの高いタスクをやってのけた…それが何より素晴らしいのだ。少し、内容にも触れていこう。サウンドは全体的にはジャズやソウルミュージックから影響を感じさせ、その後のいわゆるAORといったジャンルの雛形にもなっている。BPMは抑えめに、ヴォーカルはしっとり歌い、サウンドはジャジーでいわゆるロックミュージシャンよりはジャズやフュージョンを主戦場にしているプレイヤーがレコーディングに参加しているのだ。こういった後の、AORサウンドの定義を作った。良く言えば非常にオシャレ。悪く言えばデートの際のBGMミュージック。だが、それは後追いのテンプレしかなぞれなかった連中の話だ。「Aja」はそもそもの完成度があまりに違いすぎる。アルバムは「Black Cow」からスタートする。ぶ厚いベースが印象的なイントロと美しい女性コーラス。そして、サックスの音が心地よいOPにはベストの曲だ。タイトル曲の「Aja」は静かな入りから、徐々に曲全体が熱を持ちだし、名プレイヤーであるドラムのスティーブ・ガッドとサックスのウェイン・ショーターの驚異的なソロに突入する。この曲に関してはプレイヤーの強烈なプレイが曲の魅力を大幅に増幅している。そして、複雑な内容とプレイだが何故か聴きやすいとリスナーが感じてしまう「Deacon Blues」のあと、「Peg」を迎える。この曲は、良い曲と感じると共に難解さやノリきれない感情を持っていたリスナーの為に用意されたようなストレートな名曲だ。計算されており、スポンテイニアスとは真逆ではあるが、計算されてないとこんな素晴らしいポップネスは生まれないという好例の曲だ。僕はこの曲をハイライトに推したい。その後しっとりとした歌モノといった印象の「Home At Last」。フュージョンイントロっぽく、跳ねるシャッフルを得意としてるミュージシャンを多く起用してることを改めて意識させる「I Got The News」。そしてピアノが印象的であり、リズム隊が変態だな〜とにやにやしてしまう佳曲の「Josie」で締められる。とにかくアルバム全体に憎たらしいほどな隙がない。アルバム一枚作れば捨て曲の一曲や二曲はあるのだが、「Aja」というアルバムの完全な流れの為に一切のクオリティを下げた曲が存在しない。そして、アルバムを聴いて貰えれば良くわかるのだが、僕が前半に述べたように上手い連中しかいない。それもそうだ、ウェイン・ショーター、スティーブ・ガッド、ラリー・カールトン、ジョー・サンプルといったジャズやフュージョンの大御所から、ヴィクター・フェルドマンやチャック・レイニーといった音楽オタクが喜ぶようなプレイヤーも配置されている。テクニックのオナニー大会にならず、要所要所の安定したテクニックと何よりアルバムを覆う世界観の構成に尽力している。我の強いプロミュージシャンを納得させ良い意味で服従させてみたSteely Danの怪物っぷりには脱帽である。ロックアルバムのようにテンションが上がるとは言い難いアルバムだが、良い音楽や良いプレイを聴いた時に漏れてしまうため息とも吐息ともとれぬ、素敵な感情は絶対に約束されている。夜が悲しいあなたはお供に「Aja」を連れて、素敵な世界へと浸って欲しい。(ジョルノ・ジャズ・卓也)