やがて至る場所(ところ)「FAYRAY / 光と影」現在の吉本興業の社長である大崎洋に見出だされ、映画「キングコング」のヒロインの名を芸名として与えられた後、98年に浅倉大介プロデュースの「太陽のグラフティー」でデビューしたFAYRAY。しかし、彼女の求める音楽はaccessやT.M.Revolutionの様なデジタルロックや装飾過多のポップスではなかった。やがて00年頃から自作による作品を少しずつ増やし発表された渾身のアルバム「EVER AFTER」は、全曲全詞が彼女の自作によるもので、シンガーソングライターとしての船出作品であり、アルバムにも収録されたセルフプロデュースのシングル「tears」は彼女の最大のヒットとなった。そこからアルバムを重ねる度にFAYRAYはその装飾を落とし、結果としてこのモノクロのジャケットの本作「光と影」(06)へと辿り着く。単身ニューヨークへと渡り、地元のミュージシャンらとのセッションから生まれた濃密なサウンドは滑らかで深く、そこにFAYRAYのビター&スウィートな声が広がるアルバム。切なくも愛しい、儚くとも強い、対象ではないが二つと並べる事のできる絶妙な二つの感情の両立がFAYRAYの音楽にはある。アンハッピーを潜り抜けて、そこに到達して明日のハッピーエンドに向かうその横顔は疲労感と憂いを帯びて尚も羽ばたく事を諦めてはいないものだ。また、セッション特有の密度を織り成すための下地に骨太なバンドサウンドも有したアルバムともなっている。ギターやドラムのビートの隆起がアルバム全体のメリハリを生み、低温で心地良いグルーヴの生み出している。セッションという創作の体質がアルバム全体に一貫性を生み、曲それぞれの単体の魅力を底上げして、高い位置でトータルバランスを均一に保持した優れた作品にしたのだろう。しかし、そんな刺激的な面を更に大きく優しく包むのはやはりFAYRAYのピアノであり、声である。どんなに腕の立つセッションミュージシャンらが集ったとしても、このアルバムはあくまでもFAYRAYの作品なのだ。確かに豊潤なまでの生命力と密度がセッションにより生み出されているが、そんなサウンドに寄り添いながらグルーヴと一体となりつつ、時折どこかドライな感触を持って距離を置く佇まいはむしろ人間臭く惹かれてしまう情緒的なものだ。そんな彼女の魅力に深く、滑らかに、そして、ほどけて行くようにはまって行く過程は官能的な感覚と内省的で尚且つ対象的な開放を感じるものがある。このアルバムはロックやポップスといった根本的なジャンルですら装飾として脱ぎ捨てる自然体の脱力を持って至る場所(ところ)を示している作品なのだ。切なくも愛しい、儚くとも強い、対象にはならないが、二つは並べる事のできる絶妙な二つの感情の両立がFAYRAYにはある。2017.10.23 10:00
「デケデケデケデケ…」だけじゃない、ノーキー去りし後のHOT&COOLな一枚「THE VENTURES / Theme Form "Shaft"(黒いジャガーのテーマ)」演っている当人ら以上にファンも既におじさんと言うよりもお爺ちゃんとなってしまったTHE VENTURES。それでもネット全盛の今の時代においても「説明不要」という常套句を用いて説明ができる程にその知名度は他のレジェンド勢とはどこか次元の違う一人歩きをしている程の偉大なアーチストであることに変わりはないだろう。彼らの功績と言えば「パイプライン」や「キャラバン」そして「ダイアモンドヘッド」の「デケデケデケデケ……」という「あの」ギターで、日本でも一代旋風を巻き起こしたエレキ・ブームの立役者になり、また和製レア・グルーヴの金山であるビート歌謡の発起作「二人の銀座」や「京都慕情」「雨の御堂筋」のような日本人の琴線に触れる作品を日本人歌手に提供したコンポーザーとして活躍した部分も大きい。バンドのシンプルな形態やもはや空気のように当然的な存在としているが故にこれらの功績は今の音楽ファンにとっては太古の化石話にしか過ぎないのかもしれない。もっとも、一部の熱狂的なガレージロック、サーフロックのマニアにすれば若大将こと加山雄三(ベンチャーズとの共演もある)、テリーこと寺内タケシに並ぶこの年代、世代のスーパーグループとしての輝きは色褪せてはいないのだが。そんなベンチャーズの看板役者であるノーキー・エドワーズは一時「ギターの神様(もしくは王様)」とまで言われる程に日本では崇められてはいたが、68年には「一度目の」脱退をしている。実際本国での人気は60年代でピークを迎えていたベンチャーズなのだが、日本ではその後も衰えずに来日コンサートなどは人気を博していた。今や時々来日しては懐メロをバラ蒔いて帰っていくベンチャーズではあるが、コンポーザーとしての面を持つ彼らを象徴するように進歩と創作性のあるアルバムを作っていた時期があった。72年に発表された本作「Theme Form "Shaft"(黒いジャガーのテーマ)」はそんなグループの一面を鋭く切り取り、味わえるアルバムとなっている。何よりもキワどくてカッコイイこのジャケットに痺れてしまうアルバムだ。ノーキーの後釜として加入したギタリストはモンキーズのスタジオミュージシャンとしての経験もあるジェリー・マギーその人。当時の新世代のロックにも明るいギタリストの加入は既にロートル化していたグループに新風をもたらした。ノーキー在籍時のストレートな魅力も捨てがたいものがあるが、随所に見られる一般的なベンチャーズのイメージにはあまりないであろう粘りやしなやかさといったサウンドアプローチが本作で活きているのはジェリーの加入が大きい。アルバム冒頭の同名映画の主題曲であるベンチャーズ・バージョンの「Theme Form "Shaft"(黒いジャガーのテーマ)」のタイトなリズムと絡むしなやかな感触がベンチャーズ本来のアンサンブルに濃厚に張り付き、厚みを生んでいる。この曲が実にアルバムを分かりやすくしている。三曲目の「Thunder Cloud(鳴門)」のロッキン・ミディアムなギターとテンポの格好良さはベンチャーズをグループではなく「バンド」として見直すサウンドだ。そしてアルバムのハイライトと言えるであろう曲は、なんとコーラス・ボーカルを擁する曲「Deep. Deep. In The Water」である。カントリー調の曲と平行にして安らかに滑るようなハーモニーが実に美しい名曲だ。またアルバムにはカバー曲もたくさん収録されている。中でもスペンサー・デイヴィス・グループの曲が二曲収録されており、それが「Gimme Some Lovin'」と「I'm A Man」の二曲である。どちらもドライブ感のあるソリッドな仕上がりでカッコイイ。外部の存在を媒体に自身の血と肉する手法もベンチャーズの特色ではないだろうか。何と言っても「日本盤のみに収録」という「The Mercenary(ジャガー(豹)のテーマ)」「Tora Tora Tora」と言うのが実に渋くて嬉しいじゃないか。69年から正式メンバーとなったオルガンのジョン・ダリルの仕事も多々に活かされており、パーカッションやストリングアレンジにも目配りが十分にされているアルバムだ。当時流行していたダンヒル系のグループのグラス・ルーツのカバー「Two Divided By Love (恋は二人のハーモニー)」等もあり、流行のチェックにも余念がなかったことがうかがえる。こういったアルバムを埋もれさせてベンチャーズを単なる懐メログループと片付けて聴かないでいるのは勿体ない。夏のビーチでサーフボード片手に聴くのが似合うそんなイメージとは違ったベンチャーズのサウンドをこれを機に堪能してもらえたら嬉しい。ベンチャーズが俺たち日本に贈ってくれたメロディーはとても美しい。この国もかつてはそんなベンチャーズの書くメロディーのように美しかったのだろう。もしかするとベンチャーズを知ることはこの国の美しさに気づく事なのかもしれない。今こそベンチャーズのそんなメロディーを聴き直す時代なのではなかろうか……(文:Dammit)2017.10.02 08:00
今日の否定は明日の肯定を生み出すことはない「WANIMAから見る大衆音楽と聴き手の在り方」 今年も沢山のフェスが沢山の人に沢山の音楽を楽しんでもらうために開催された。商業化によるフェスの形式の変化や若者層のフェス離れも叫ばれているが、それでも今や莫大な利益を生み出すイベントの一つであることに変わりはない。 今年の様々なフェスに参加するバンドの中にWANIMAというバンドがいる。Hi-STANDARDのレーベルPIZZA OF DEATH RECORDSに所属する青春パンク・サウンドで話題のバンドだ。しかし、このWANIMAとフェスを巡って音楽ファンとして悲しい問題が起きた。それは今年の7月の下旬に開催されたap bank fesでの事。出演したWANIMAに対して「帰れ!」等の暴言を吐いた客がいたというのだ。バンド側の寛大な対応でその場は事なきを終えたが、観客には勿論WANIMAのファンもおり、せっかくのフェスで不快な思いをしたという。所謂「アンチ」と呼ばれる存在の仕業であるが、これはそのアンチの存在による愚行を憎むだけの案件で済ませて良いものか。実はこの問題から今一度考えるべき「聴き手と大衆音楽のあり方」が浮き彫りになっているのではないか。そもそもアンチは「悪」なのであろうか?この直結した考えそのものが既に間違っているのだ。そのバンドのアンチだからと言ってバンドやそのファンへとバッシングを行ってよいという訳ではない。先のWANIMAのライヴでの暴言を吐いた観客はアンチではなく、単なるモラルの欠落した観客にしか過ぎない。その程度のモラルではその観客がファンと公言したアーチストの品位までが疑われてしまうだろう。では本当のアンチとは何者か、それはファンでもあるということである。厳密に言えばアンチとファンは表裏一体であり、それらを分けるのは一種の「選択」である。この「選択」のできない者が先ほどWANIMAのライヴでヤジを飛ばしたモラルの欠落した観客のようになるのだ。そして何より、この「アンチ擬き」が日本のポップ、ロックシーンを貶めている戦犯であるという事である。「今の日本の音楽は腐っている」等と言う輩に限って「選択」を怠り、その「腐った音楽」を黙認し、蔓延させている張本人なのである。所謂「売り手側」が垂れ流したものに対して認識が余りにも緩く、ザルのように浴びた結果が「腐った音楽が蔓延している日本」となった。支持者がいなければ広まることはない、買わなければ売れない。この当然かつ単純な事実が機能を失っている。「売り手側」もまた単純に「売る」だけである。確かに「売る事」に対してタイアップなどの戦略的な方法を駆使してくる。しかし、最終的な判断を下し、買って聴くのは俺たち聴き手だ。一定のジャンルが流行し、蔓延に至るにはそんな「売り手側」と「聴き手側」の意識皆無の癒着が横行しているのだ。ネットとダウンロードが全盛の時代だ。CDやレコードと言った手に取ることができた媒体は寂れている。ある意味では刹那的な音楽の本質に近い媒体としてダウンロードはあるのかもしれない。その「手軽さ」故に「選択」に対して更に怠慢となり、ランキングの上から下まで興味が失せるような曲に埋め尽くされる日も増えてきた。もはや「選択」の余地すら無いように思える。しかし、それを免罪符に「選択」に怠る自身に気付いた時に見えるのは、自分の一番好きなアーチストのライヴで罵声を発している観客が自分と全く同じ姿の人間であるという悪夢だ。俺たちはこうして最愛の恋人の首を絞めて微笑んでいるのだ…… (文:Dammit)2017.09.13 09:00
浅草六区で大暴れ!魔性のアンダーグラウンド・トリックスター「LIZARD」日本国内最古のインディームーブメント「東京ロッカーズ」の主犯格リザード。79年の当時パンクムーブメントで沸いていたロンドンにてストラングースのジャン・ジャック・バーネルのプロデュースの元で制作されたのがバンド名を冠した1stの本作である。グラムロックと歌謡曲のキッチュで毒々しい魅力を粋に羽織り、パンクで風穴を空けてニューウェーブの浮遊感で通り抜けたような刺激的でポップなサウンドは中毒性が高く、一度ハマるとクセになること間違いなしだ。本作もそんなバンドの魅力がチープな原色のスパークさせながら聴き手をクラクラとよろめかせる電撃盤となっている。バンドの世界観を詞曲両面から表した冒頭の「NEW KIDS IN THE CITY」、「ひい・ふう・みい」という掛け声がなんともツボを押さえる「PLASTIC DREAM」、80年代に向かう時代にTVがメディア媒体と娯楽としての暴力性と狂気の牙を剥き始めた事への警告歌「T.V. MAGIC」、どの曲も一筋縄では行かないリザード特有の魅力に溢れている。当時の同士であったニューウェーブ勢のP-MODELやヒカシューと比べると音楽的な先鋭の保持とは裏腹に革新集団としての意識があるんだか無いんだかよく分からない掴み所の無いキャラクターが災いしてか他の二人のバンドと比べると、後世に知られていない気もするのは実に残念(そんなキャラクターがこのバンドの愛しいところでもあるが…)でもあるが、それでもバンドの遺伝子は脈動と受け継がれている。BUCK-TICKやイエローモンキー、毛皮のマリーズ辺りはグラムロックと歌謡曲の魅惑的邂逅をジュリーとリザードを表裏一体に見ていたのではなかろうか。時空を超越した「共鳴性」であれば、新たなジャポニズムを提示し続ける椎名林檎や、キッチュでポップな毒々しさをとことん遊んでしまうきゃりーぱみゅぱみゅもそうだろう。音楽的な点ではモモヨのプロデュースでデビューしたゼルダに通ずる相対性理論を引き合いにしても面白い。近年の混沌極める日本の音楽シーンではあるが、その隅隅にリザードの影を様々な形で見ることができる。それはリザードが実に日本的なバンドだったからに他ならない。故に影響と共鳴力が一人歩きしているのだ。テクノポリス・トーキョーは下町の浅草アンダーグラウンドをトリックスターの魔性を纏いて光線銃を片手に所狭しと大暴れ!サイバー仕掛けの月光仮面、その名もリザード!此処に在り!(文:Dammit)2017.08.28 07:30
退廃と堕落が織り成す甘美なる明日なきデュエット「JOHNNY THUNDERS & PATTI PALLADIN / COPY CATS」70年代中期に英国のグラムロックの吐息を受けたストーンズをさらに毒々しく退廃的なオーラで纏った「元祖」パンク・バンドのニューヨーク・ドールズのギタリストとして登場し、その後もイギリスのパンクムーブメントの激流の中をハートブレイカーズ等のバンドで駆け抜けてソロへと転身したジョニー・サンダース。そんな彼が80年代の半ばにハートブレイカーズでもバック・ヴォーカルを務めた元スナッチなるグループにいたパティ・パラディンと共に選曲し、デュエットしたカバーアルバムが本作だ。二人とも生粋のニューヨーク育ちであって、シャングリラスやスクリーミン・ジェイ・ホーキンスなどのロックンロールへの愛が溢れた通な選曲集となっている。ジョニー・サンダース、人は彼を「真のリアル・ロックンローラー」と呼んだ。短くも破滅的なその壮絶な人生もさながら、商業的な消耗となりえるような成功とは無縁のアンダーグラウンドのロックスターであったことも要因としてある。しかし「真のリアル・ロックンローラー」という称号は同時に、人としての一般的な良識や、社会性から最も遠くにある存在=蔑みの対象としての名称と表裏一体のものでもある。彼自身もまた自らを「Bone To Lose」(敗北する為に生まれた)と歌っている。ロックンロールの魔性に魅せられ、堕落してセックスとドラッグと暴力により破滅する。ジョニー・サンダースは80年代にあっても尚そんな古のロックンロールの幻想譚を生きた男だった。また、彼がオーバードーズで亡くなった時には現場に強盗が入り、音楽機材や金品の類いは全て奪い去られていたという。辛辣に言えば、それらは全て稚拙な自己陶酔をロマンティシズムと履き違えて破滅した愚か者の成れの果てにしか過ぎない。それが社会的にかつ一般的な人としてのモラルに沿った見解と事実だろう。しかし、それが何だと言うのだろうか。真実と事実は一致しないこともある。正しい偽りもあるのだ。ジョニー・サンダースはそんなロックンローラーだった。調子外れなステップとヨレヨレのギターとなんとも弱っちい歌声、けれども何故か魅力的で眩しい、矛盾が織り成す魔法で存在するようなロックンローラーだったのだ。パティ・パラディンの止めどなく甘く享楽的な滑らさを持つ歌声がジョニーの矛盾だらけのイビツな魅力を包み込み、底無しに堕ちて行く事を肯定してしまえる魅力を持つ本アルバム。カバー・デュエット・アルバムという特種な作りでありながら曲一つ一つよりもアルバム全体にトータライズな空気感を味わい楽しめる作品である。またそれらの魅力は先に触れたように二人がニューヨーク育ちであるという共通点とバックボーンとしてあるロックンロール・ミュージックに対する造詣を支える深い愛着が為し得るものでもある。そんな二人のデュエットは実に享楽的で甘美で破滅的だ、それは一般的な社会からすれば間違いだらけかもしれない、だからと言って何だと言うのだろうか、この胸の奥を締め付ける感情はそんなものでは割りきれない輝きで溢れているのだから……2017.08.18 09:30