今日の否定は明日の肯定を生み出すことはない「WANIMAから見る大衆音楽と聴き手の在り方」

 今年も沢山のフェスが沢山の人に沢山の音楽を楽しんでもらうために開催された。商業化によるフェスの形式の変化や若者層のフェス離れも叫ばれているが、それでも今や莫大な利益を生み出すイベントの一つであることに変わりはない。

 今年の様々なフェスに参加するバンドの中にWANIMAというバンドがいる。Hi-STANDARDのレーベルPIZZA OF DEATH RECORDSに所属する青春パンク・サウンドで話題のバンドだ。しかし、このWANIMAとフェスを巡って音楽ファンとして悲しい問題が起きた。

それは今年の7月の下旬に開催されたap bank fesでの事。出演したWANIMAに対して「帰れ!」等の暴言を吐いた客がいたというのだ。バンド側の寛大な対応でその場は事なきを終えたが、観客には勿論WANIMAのファンもおり、せっかくのフェスで不快な思いをしたという。

所謂「アンチ」と呼ばれる存在の仕業であるが、これはそのアンチの存在による愚行を憎むだけの案件で済ませて良いものか。実はこの問題から今一度考えるべき「聴き手と大衆音楽のあり方」が浮き彫りになっているのではないか。

そもそもアンチは「悪」なのであろうか?この直結した考えそのものが既に間違っているのだ。そのバンドのアンチだからと言ってバンドやそのファンへとバッシングを行ってよいという訳ではない。先のWANIMAのライヴでの暴言を吐いた観客はアンチではなく、単なるモラルの欠落した観客にしか過ぎない。その程度のモラルではその観客がファンと公言したアーチストの品位までが疑われてしまうだろう。

では本当のアンチとは何者か、それはファンでもあるということである。厳密に言えばアンチとファンは表裏一体であり、それらを分けるのは一種の「選択」である。

この「選択」のできない者が先ほどWANIMAのライヴでヤジを飛ばしたモラルの欠落した観客のようになるのだ。そして何より、この「アンチ擬き」が日本のポップ、ロックシーンを貶めている戦犯であるという事である。「今の日本の音楽は腐っている」等と言う輩に限って「選択」を怠り、その「腐った音楽」を黙認し、蔓延させている張本人なのである。所謂「売り手側」が垂れ流したものに対して認識が余りにも緩く、ザルのように浴びた結果が「腐った音楽が蔓延している日本」となった。支持者がいなければ広まることはない、買わなければ売れない。この当然かつ単純な事実が機能を失っている。「売り手側」もまた単純に「売る」だけである。確かに「売る事」に対してタイアップなどの戦略的な方法を駆使してくる。しかし、最終的な判断を下し、買って聴くのは俺たち聴き手だ。一定のジャンルが流行し、蔓延に至るにはそんな「売り手側」と「聴き手側」の意識皆無の癒着が横行しているのだ。

ネットとダウンロードが全盛の時代だ。CDやレコードと言った手に取ることができた媒体は寂れている。ある意味では刹那的な音楽の本質に近い媒体としてダウンロードはあるのかもしれない。その「手軽さ」故に「選択」に対して更に怠慢となり、ランキングの上から下まで興味が失せるような曲に埋め尽くされる日も増えてきた。もはや「選択」の余地すら無いように思える。しかし、それを免罪符に「選択」に怠る自身に気付いた時に見えるのは、自分の一番好きなアーチストのライヴで罵声を発している観客が自分と全く同じ姿の人間であるという悪夢だ。

俺たちはこうして最愛の恋人の首を絞めて微笑んでいるのだ……  


(文:Dammit)


Dammit
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